「教会」あるいは「キリスト教会」と名前の付いている所が、どこでも良いわけではありません。お金にも本物と偽物があり、どういう世界にも本物と偽物が存在するように、地域教会にも本物と偽物があり、おすすめできる教会もあれば、おすすめできない教会、異端も存在しています。
[エホバの証人(ものみの塔・王国会館)、統一教会(文鮮明)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、摂理という団体が存在しますが、エターナル・ライフ・ミニストリーズとは一切関係ありません!]
異端と言われる所でなければ、どの「地域教会」も同じというわけではありません。どうすれば自分にとって適切な教会を見つけることができるでしょうか?
人々が教会を選ばなければならない時があります。引越しや就職、転勤などのため、新たに礼拝すべき教会を探す人々は少なくありません。また、聖書やイエス・キリストのことを知って間もない人たちのために、その人の近くの教会を紹介してあげなければならないこともあります。
しかし、引越しするわけではなくても、現在自分が出席している教会にとどまることが困難になって、他の教会を探すことを余儀なくさせられる誠実な人たちも、現実に存在します。 クリスチャン自身の側の「放浪癖」やわがままなどが原因である場合は論外ですが、神の御霊に導かれて所属教会を変更する場合も確かにあるのです。 なぜなら、牧師も信徒も完全ではなく、不完全な人間から成る地域教会も完全ではないからです。
ある女性は、自分が救われた教会で長年にわたって信仰を養われ、結婚して敬虔な家庭を築き、奉仕にも熱心に励んでいました。年月がたち、当初の牧師とは別の新しい牧師がその教会を担当していました。その教会を離れて去って行く人々がいても、彼女は、「この教会から出て行く人たちは、非常に悪い人たちだ」と新しい牧師に教えられ、そう信じていました。
ところが、ついに彼女自身がその教会を去らざるを得なくなった時、今までのそういう考え方がまちがいであったと初めてわかったのです。 彼女は、今までその教会から出て行った人々に対して自分がとってきた態度を悔い改めたのです。
もし、完璧な地域教会というものが存在するとすれば、その教会から出て行くべきではないと言えます。しかし、現実には、そのような教会があり得ない以上、私たちはもっと謙虚な考え方をしなければなりません。
ケネス・E・ヘーゲンはこう述べています。 「良い羊飼いは羊のために自分の命を与えます(ヨハネ10・11)。彼は羊を第一にします。そういう人こそ、羊たちの監督権を持っている者なのです。そういう羊飼いこそ、羊たちを任せられて、本心から羊たちのことを最も心に留めている人なのです。
私は牧会していた時、いつでも人々にこう語ってきました。
『みなさんがここで養いを受けるよりも、もっと良い養いを受け、ここで霊的に成長するよりも、もっと霊的に成長することのできる別の教会を見つけたら、私はみなさんがそこへ行くことを勧めます。事実、私は本心からみなさんのことを最も心に留めていますので、みなさんがそこへ行くことを主張します』
もし牧師が人々の生活をコントロールしようとしたり、自分が人々にさせたいことを強制的に彼らにさせようとすると、おそらく会衆の半分を失う結果になるでしょう!」
(『教会・牧師・預言者』より)
このような牧師の教会に通う信徒は幸いです。 心からこのように言える牧師は、自分の羊たちの成長を本心から願っているからです。 そういう牧師は、「この教会で教えることだけが真理です」とか、「この教会から離れたら、あなたは地獄に行きますよ」などという言い方は決してしないはずです。
ペテロは牧師たちに、こう命じています。 「あなたがたの内にいる神の群れを牧しなさい。…割り当てられている人たちを支配するようにではなく、群れの模範となって監督しながら」(新約聖書『ペテロの第一の手紙』5・2,3)
ここで使われている「支配する」(ギリシャ語カタキュリューオー)という語には、「圧倒する。押さえつける」という意味があり、この同じ語は、新約聖書『使徒行伝』19・16でも使われています。「その邪悪な霊が内にいた人は、彼ら(スケワの七人の息子たち)の上に跳びかかり、彼らを押さえ込んで(ギリシャ語カタキュリューオー)彼らに対して優勢になった。そのため、彼らは裸で、傷を負わせられたまま、その家から逃げ出した」
ここでは、七人の男たちを裸にして傷を負わせるという、激しい暴力行為の描写に使われています。
また、イエス様は使徒たちにこう言われました。 「異邦人たちの長(おさ)たちは彼らに支配権を振るい、偉大な者たちは彼らに権力を振るっています。 しかし、あなたがたの間では、そのようにはなりません。かえって、あなたがたの間で偉大になることを願っている者は、あなたがたの仕え人でいなさい。 また、あなたがたの間で第一の者でいたいと願っている者は、あなたがたのしもべでいなさい」(『マタイによる福音書』20・25〜27)
これは、この世の統治者が自分の権力をほしいままにして人々を支配する様子を描写しています。クリスチャンの間には他の人を「支配する」関係があってはならず、むしろ、指導者は「仕え人」また「しもべ」とならねばならないことを、イエス様は教えておられるのです。
聖書は、牧師が「割り当てられている人たちを支配するように」監督してはいけないと命じています。 すなわち、牧師が信徒たちを押さえつけ、圧倒し、支配するような牧会をしてはならないと言っているのです! その点が正しく理解されない時、ちょうどスケワの七人の息子たちが逃げ出したように、信徒たちが傷を負わされて教会から逃げ出すという状況が生じるのです。
牧師が信徒を支配し、信徒一人一人のことよりも、自分自身の立場や名声、あるいは金銭面のことを重んじるようになる時、さまざまなトラブルが生じます。自分の教会の出席者数を減らしたくないとか、教会の献金収入を減らしたくないという理由で、信徒を他の教会に移したがらない牧師たちは問題です。
たとえば、教会員「籍」は、信徒の所属教会を明確にするという点では良いものですが、それが信徒を拘束するようになる場合は有害です。教会を移ろうとする信徒に対し、牧師が籍を移させずに「押さえつけ」、信徒の自由を奪ってはいけないのです。信徒は、牧師が思い通りに動かせる「駒」ではなく、「自分のビジョン」達成のために「利用」できる「子分」でもないのです。
したがって、信徒を支配し、押さえつけようとする牧師は、概して傲慢(ごうまん)であり、信徒への愛に欠けることがよくあります。神をあがめるはずの礼拝なのに、牧師をあがめさせているような、どこかのカルト集団とよく似た教会も要注意です。 心が狭く、怒りっぽくていばり散らしてばかりいるような精神的に幼い親(牧師)もいれば、子ども(羊)を虐待している父親や母親もいます。羊が必要としているのは、きちんと育ててくれる羊飼いなのです。
これらのことは、ある程度の時間をかけなければわからないことです。その教会の礼拝に数回出席して、「立派な」説教を聞く限りでは、そういうことはわかりません。 だれ一人、「早くここに決めなさい」と牧師からせかされる必要はありません。何事にも言えることですが、よく祈り、時間をかけ、さまざまな点をじっくりと見きわめ、その後で落ち着いて決めることが肝要です。
特に、救いについて知ったばかりの人に教会を紹介してあげる場合は、大きな責任が伴います。
「どこか適当な教会を探しなさい」と言うだけでは無責任です。生まれたばかりの「赤ちゃん」は、まだ判断力が未熟であり、だまされやすいものです。子羊を狼(オオカミ)に渡してはなりません。その人が真に適切な教会につながるまで、責任をもって導くことが必要です。
ただし、欠点の全くない「理想的な地域教会」は、おそらく存在しないでしょう。けれども、重要なのは、一つ一つの欠点や不備や悪を見過ごしにせず、完成を目ざして努力する姿勢です(『ピリピ人への手紙』3・12〜15、ヘブル6・1)。不完全な人間から成る不完全な地域教会ではあっても、牧師も信徒も完全な姿を目ざして祈り合い、支え合って、キリストの栄光が現わされるよう熱心に励んでいる教会でありたいものです(『エペソ人への手紙』5・27)。この日本のいたるところに、「安心して羊をゆだねることのできる」教会が多く存在するようになることを願う次第です。
お一人お一人が、その人に対する神の完全なみこころの教会に導かれますよう、心からお祈り致します。
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